国宝・石清水八幡宮

国宝・石清水八幡宮

〝やわたのはちまんさん〟と親しまれる当宮が御鎮座する八幡市・男山は、山城の国、丹波の国にから、鴨川・桂川・木津川・宇治川の四川が合流し淀川となる地点を挟んで天王山と対峙する位置にあり、京・難波間の交通の要地であります。
また、南北朝時代の大小様々な戦い、羽柴秀吉と明智光秀の天王山の合戦などで知られる政治上の重要な拠点でもありました。

男山は都からみて裏鬼門(南西の方角)に位置し、鬼門(北東の方角)に位置する比叡山延暦寺とともに都の守護、国家鎮護の社として篤い崇敬を受けてきました。
この経済上、政治上、そして信仰上の要の地に御鎮座され、日本を平和と繁栄に導く神として多くの人々に崇敬され、八幡大神様を祀る神社は全国津々浦々に数万社あるともいわれています。
当宮の御祭神は御本殿中央に応神天皇様、西に比咩大神様、東に神功皇后様をお祀りしています。
この御本殿に鎮まる三座の神々を総称して八幡三所大神(八幡大神)様と申し上げます。

神武天皇に始まる

神武天皇は日向からの御東征に際して宇佐に立ち寄られ、宇佐津彦宇佐津比売という両柱の神様に援助を請われ、その後、大和に向かわれました。
神功皇后の新羅・百済の平定に当たっては宇佐一族の助勢があり、玄界灘渡海の困難を克服されました。
聖武天皇の東大寺大佛ご造立に当たっては宇佐八幡大神の御來寧をもって巨像鋳造の大事を果たされました。
八幡大神が武の神になられた由縁が神武天皇創国のときに兆していると考えられます。

八幡信仰

古代、宇佐の地に発祥し(西暦581年)、全国津々浦々の町や村に鎮座する八幡神。
その信仰の広がりは、我が国の神々の中で群を抜いている。
また、八幡神は多様な側面を持っている。
その時代、世の移り変わりに応じて様々に変貌を遂げた神ということが出来る。
古代九州で最大の内乱であった養老4年(西暦720年)の隼人の乱、天平12年(西暦740年)の藤原広嗣の乱の鎮圧に力のあった八幡神は、まず朝廷の守護神に位置づけられる。
その八幡神が中央に進出するきっかけとなったのは、天平勝宝4年(西暦752年)の聖武天皇の東大寺大仏造立を助成したことである。
このとき、八幡神は破格の位と褒章を授かり、国家の守護神、仏法の守護神として崇められ、東大寺境内に手向山八幡宮が創建される。
都が京都に移った平安時代、王城鎮護の神として貞観2年(西暦860年)、京都男山に石清水八幡宮(紀氏)がそうけんされ、また東寺など有力寺院の鎮守としても八幡神が迎えられる。
更には、源氏を棟梁とする武士たちには武神として崇拝され、康平6年(西暦1063年)の鎌倉鶴岡八幡宮をはじめ、全国各地に八幡宮が勧請されていく。
このような八幡神の最大の特徴の一つに、神仏習合つまり仏教との融合がある。八幡神を[八幡大菩薩]と仏名で呼ぶのもその表れであり、仏像と同じように八幡神像を祀り、八幡曼荼羅や八幡縁起などがつくられたのも、仏教との融合の結果である。

国宝・石清水八幡宮の起源

平安時代・五十六代清和天皇の御代、貞観元年(西暦八五九年)南都大安寺の僧・行教(父は山城守紀魚弼。仁和寺益信とは俗兄弟で、石清水八幡宮別当安宗の叔父)が、豊前国(現大分県)宇佐八幡宮に参籠し、一夏を通して日夜に読経念誦され、大神に廻向されました。
帰京されんとした夜半、八幡大神から「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御神託を蒙り、行教は歓喜感銘、八幡大神を奉じて石清水男山の峰に勧請し奉り、事の次第を朝廷に奏上されました。
清和天皇の勅使が参向され、木工寮から木工・橘良基が派遣され、翌貞観2年(西暦860年)宝殿六宇を建立、八幡大神(応神天皇)・比売大神・神功皇后の三所大神を4月3日に鎮め奉りました。
行教和尚の木造は、男山の中腹にある神応寺にお祀りしています。
曹同宗の寺院、山号は糸杉山で本尊は薬師如来。
明治の廃仏毀釈以前は石清水八幡宮の神宮寺であった。
八幡市駅から近い、石清水八幡宮一の鳥居手前の道標に従って入っていくと、狭い道の途中に山門があり男山の山腹に建つ神應寺 (ジンノウジ)までの石段が続いています。

貞観造営が木工寮の手により成ったことから推察しても、石清水八幡宮がやがて皇室の厚い信仰を博すべきかは容易に推知し得ることです。
貞観18年(西暦876年)には、山城国に勅令されて、毎年42戸をもって石清水八幡宮護国寺に寄せられることになりました。
次いで61代朱雀天皇天慶3年(西暦940年)8月28日に平将門の乱が起こり、その鎮定のために伊勢神宮以下に区願されたときに、25戸を賜ったのを始めとして、歴代の朝廷からご加増があり、後三條天皇のころには荘園34ケ所にもなっていました。
また、八幡大菩薩は品太天皇の御霊なりといって、応神天皇であるという信仰が生じ、国家の宗庿であるという篤い国民的信仰の対象となりました。
64代円融天皇の天元2年(西暦979年)3月行幸があって社前で踏歌を献ぜられて以来、明治10年5月10日明治天皇の行幸まで、行幸の数は70余度、上皇女院の行幸は170度を超えています。
まさに天下の宗庿です。

若宮社
本社社殿の北東に鎮座する摂社「若宮社」御祭神は仁徳天皇。男性の守護神で学業成就、祈願成就の御神徳。

若宮殿社の御祭神は応神天皇の皇女、女性の守護神で心身健康、祈願成就の御神徳があるそうです。

御神徳 「世は変われども神は変わらず」

八幡大神様は男山に御鎮座され、都の守護神、国家安泰の神として朝廷はもとより広く国民に篤い崇敬を受けてまいりました。
特に清和天皇の嫡流である源氏一門は八幡大神様を氏神として尊崇し、その信奉の念は格別で全国各地に八幡大神様を勧請しました。
源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」と名乗ったことは有名です。
以来、国家鎮護、厄除開運、必勝・弓矢の神として時代を超えて人々の篤い信仰を受けてきました。
とりわけ当宮の厄除信仰の歴史は古く、今なお全国屈指の厄除の神社として新春の厄除大祭を始め年間を通し参拝に訪れる方々は跡を絶ちません。
八幡大神様の御神徳はまさに広大無辺であります。

「手水舎」の辺りから本社社殿まで伸びる参道

仏教と神道との融合

佛教が伝来したとき、古代からの国民信仰であった神祇崇拝と、どのように融合するかが当時の宗教界の難問でありました。
このことについて、初めて手をつないだのが八幡大神でありました。
聖武天皇の東大寺大佛ご造立に当たって御来駕された八幡大神は、宇佐に帰られずにそのまま東大寺を護(まも)る神として、寺の近くに手向山(たむけやま)八幡が分霊(ぶんれい)として祀られました。
八幡大神は奈良の人々に強力な印象を与え、国家神としての第一歩を踏み出したのでした。
八幡大神が「我が国の神祇であるからには、結局は人倫である。
人間であるからには、多くの煩悩煩悶もあろう、それから解脱するためには、ありがたき経典の法力に依るほかはないので八幡大神は東大寺を去らないで寺内にあって、経文読誦の功徳にあずからんとされるのである。」
という解決を下し、それ故に【八幡大神は八幡大菩薩である】と、ここで神祇を仏教界の菩薩位として、その教理内に容含することとなったのです。
これを【神仏習合】と申します。

御祭神

中御前   応神天皇(第15代)
別名 誉田別尊(ほんだわけのみこと)
西御前   比咩大神(ひめおおかみ)
東午前   神功皇后 
別名 息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)

当宮の国宝 国指定重要文化財

平成27年10月16日の文化審議会において、古代に成立した荘厳な社殿形式を保持しつつ、近世的な装飾を兼備した完成度の高い神社建築として、高い価値を有していることが、評価され国宝へと認定されました。
現在の社殿は徳川三代将軍家光の造替によるもので、日本三大八幡宮の一社であり、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟。
現存する八幡造の本殿の中で最古かつ最大規模です。

国宝指定された文化財

建造物 石清水八幡宮本社(10棟) 
本殿 摂社武内本殿 瑞籬 幣殿及び舞殿 楼門 
東門 西門 廻廊(三棟)
その他 附 棟札(つけたりむなふだ) 三枚

国指定重要文化財

古文書 
巻 物 796巻 冊子本 368冊 
書 状 1025通 地図等 10鋪
折 本  21帖 掛 軸 5幅 落款等 11顆 
『類聚国史』(巻第一、巻第五)
※嘉禄三年五月十九日書冩奥書
建造物
若宮社 若宮殿社 水若宮社 住吉社 狩尾社 
東総門 西総門 北総門
石造り五輪塔 
鎌倉期石灯籠(永仁三年乙未三月日刻銘)
国指定史跡
松花堂及びその跡 石清水八幡宮境内
神像
木造童形神坐像(4躯)
京都府指定文化財(建造物) 
石清水社(本殿・神水舎・鳥居) 校倉
神像 
木像神像(4躯)
京都府指定天然記念物 
神苑南側の楠および神楽殿北側の楠
八幡市指定美術工芸品 
松鳩図絵馬


「手水舎」

古(いにしえ)に果たせぬ法師の想いを今

これは吉田兼好の随筆『徒然草』に、文中最後でも述べられている通り、「些細なことでも、そのことについて導いてくれる人が必要である」という教訓を説く例として登場する場面です。
そもそも、この、ある法師の勘違いは石清水八幡宮の御本殿が男山山上にあり、さらには山麓にも別のお社があることにより起こりますが、文中の極楽寺は元慶7(883)年に建立され立派な伽藍でしたが、慶応4(1868)年1月に「鳥羽伏見の戦い」の兵火で焼失し現存していません。
また高良神社は当宮の摂社ですが、八幡の氏神でもあり、毎年7月17・18日には「太鼓まつり」が八幡の夏の風物詩として賑やかに行われています。
『徒然草第52段』の通り今も高良神社の脇から表参道あるいは裏参道にて山上の石清水八幡宮御本殿まで約20分程度で上がれますので、念願果たせなかった仁和寺のある法師の分までご登拝いただけますよう心よりお待ちいたしております。

エジソン記念碑

このエジソンと日本、そして男山との深い縁を踏まえ、昭和9(1934)年に石清水八幡宮境内の隣に「エジソン記念碑」が建立されました。
そして昭和33(1958)年には、エジソン彰徳会により、エジソン白熱電球の実用化成功に最も大きな役割を果たした竹に縁の地である当宮境内に記念碑が移転され、さらに記念碑建立50年に当たる昭和59(1984)年10月18日には、デザインを一新し建て替えられて現在に至ります。
エジソンの令嬢スローン夫人は昭和39年に当宮を訪れ、「これほど立派な記念碑はアメリカでも見たことがない」と感激されました。
当宮では、世界の発明王の遺徳を偲び、毎年エジソンの誕生日である2月11日にエジソン生誕祭、命日である10月18日にエジソン碑前祭を斎行し、記念碑前に日米両国の国歌を奉奏し、国旗を掲揚しています。
特にエジソン碑前祭では、エジソン彰徳会や電力会社関係者参列のもと、カーネーションの花輪を碑前にお供えしています。

白熱電球の発明

今から100年以上も昔、明治12(1879)年の秋、偉大な発明王エジソンは最初の白熱電球を発明しました。
木綿糸を炭化させたものをフィラメントに使用したその電球は40時間も輝き続けました。
40時間という時間は、当時としては画期的なくらい長い時間でしたが、エジソンはもっと誰もが気軽に使うことができる電球でなければと満足せず、さらに研究を続けました。
そのためにエジソンは紙や糸、植物の繊維など数々の材料からフィラメントを作り電球の試作を繰り返し、その数は植物の種類だけでも6,000種類以上といわれます。

運命の出会い(エジシンと竹)

試行錯誤の研究を進める中、ある日エジソンは日本からのお土産として研究所にあった扇子を見つけ、その骨を使って電球を試作してみました。
するとその結果、電球の寿命は飛躍的に延びました。
そしてその扇子の骨こそが竹であったのです。
竹は繊維が太く丈夫で、長持ちするフィラメントを作るのに最適であったのです。
さっそくエジソンは「究極の竹」を求め世界中に研究員を派遣し、その中の一人であった探検家ウィリアム・H・ムーアは中国を経て日本へとやってきます。
ムーアは様々な地域・種類・成長度の竹を集める中、京都を訪れた際、当時の槇村正直京都府知事から竹の名産地であった八幡の「八幡竹」を紹介され、他所の竹と共にエジソンのもとへと送りました。
ムーアからの日本各地の竹を受け取ったエジソンはそれらを使いさらに実験を繰り返し、そしてついに、最も長持ちのする、最高の竹を発見します。
そしてその竹こそが京都・男山周辺の真竹だったのです。
この竹を使用した電球は何と平均1,000時間以上も輝き続けたといいます。
その後セルローズによるフィラメントが発明され日本の竹は使われなくなってしまいますが、それまでの十数年間、日本の竹がはるかアメリカの家庭や職場、街頭を明るく照らしていたのです。

【五代友厚の言葉】

自分が嫌ってしまえば、相手もまた自分を嫌ってしまうので、気のすすまない相手とも積極的に交際をするように、という意味で、五代友厚が友人の大隈重信に宛てた手紙の文章です。
 大隈重信は外務大臣や内閣総理大臣を歴任後早稲田大学を創設、五代友厚は薩摩藩士から実業家になり、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)初代会頭となる、高名な二人なのですが、心を許しあっている深い友情を感じます。
 その言葉を受け止めてもらえるかどうかは別問題として、言いにくい事でもその人のために言えるかどうかは自分の問題、なのかもわかりませんね。

ご祈祷のご案内

ご祈祷は神様に祈りを捧げる作法として最も丁寧なお参りの方法の一つです。当宮では八幡大神様の御神徳に依り厄除開運・家内安全・必勝・社運隆昌・受験合格・交通安全・お宮参りなどのご祈祷をご奉仕いたしております。
年間を通して毎日9時~16時まで(正月期間は変動あり)、祈祷受付所(御本殿に向って右側)にて受け付けしております。ご予約は承っておりませんのでご了承ください。ご祈祷のご奉仕は、受付後随時行っておりますので、受付時間内はいつお越しいただいても結構です。
なお、御本殿にてご祈祷のご奉仕を行っております都合上、祭典行事など斎行の間、お待ちいただく場合があります。 詳細は当宮社務所までお気軽にお問い合わせください。また、当宮ではネットや通信でのご祈祷は行っておりません。

厄除開運祈願(前厄・本厄・後厄・廻り年・八方除け・方除け・災難除け)

八幡大神様の御功績に依り当宮の厄除け信仰の歴史は古く、今なお全国屈指の厄除けの神社として年間を通して多くの方々が参詣されます。

社運隆昌・商売繁盛

当宮の必勝の信仰、また国、地域、そして人々を発展させる守り神として、さらには男山の地が政治・経済・交通の要所であったことから、為政者や企業・商売人からの社運隆昌・商売繁盛の信仰は篤く、八幡大神様の御加護により歴史上錚々たる為政者や企業が発展していきました。

安産祈願

東御前の御祭神・神功皇后様は、『古事記』によると「神功皇后が戦に出征された時、お腹には応神天皇を身ごもっておられた。
そこで石を帯の中に巻きつけて、妊娠を悟られないようにしお腹を守り、険しい表情をした男性の顔があしらわれた兜をかぶり、無事に戦に勝利し、戻られて応神天皇をお産みになられた」とあり、その故事に因み安産の神様として篤く信仰されています。
祈願は妊娠5ヶ月目の戌の日に受け、その日より腹帯(岩田帯)を身に着け安産を願うのが一般的な習わしです。

初宮参り祈願(お宮参り)

七五三参りの行事は、人生儀礼として、七・五・三の奇数(陽数)を男女の児童の年齢に当てはめて、子どもの成長段階を区切りよくしていくというお祝いです。  
「七つまでは神の子」ともいわれるように子どもが物心つくまでの節目節目に、神様にお参り(報告)する大切な行事です。

初宮参り祈願(お宮参り)

男女ともに13歳は、一巡りして初めて自分の干支(生まれ年)を迎える厄年(年男/年女)に当たり、特に十三参りとして重要な年と考えられてきました。大人への転換期でもあるこの年に正しい人格と知恵を授かるよう祈願します。

交通安全祈願

かの発明王エジソンは八幡の真竹を用い電球の長時間点灯に成功しました。「天才とは99%の汗(の努力)と1%のひらめき」。そのご神縁に因みご祈祷のほか、おふだ・お守り授与所では竹製のエジソン合格祈願絵馬を授与しています。

祝歳参り祈願

古希(70歳)・喜寿(77歳)・傘寿(80歳)・米寿(88歳)・卒寿(90歳)・白寿(99歳)などの節目のお祝いの年に、これまでの平穏無事に感謝するとともに、これからの益々の健康を祈願します。

神前結婚式について

結婚式は人生の門出を祝う厳粛な儀式です。
神前において結婚式を行うようになったのは、皇室の御婚儀が賢所の大前で行われることにならったのが始まりです。
石清水八幡宮では、由緒ある御本殿大前において挙式が斎行されます。
お二人は、この御縁を導き下さった神様に感謝し、末永くお互いに手を取り力を合わせて幸せな家庭を築き、ご両家ますますの繁栄を祈ります。

祭典行事のご案内
勅祭 石清水祭

石清水祭は清和天皇の貞観5(西暦863)年、旧暦の8月15日に「石清水放生会」と称し、八幡大神様が男山の裾を流れる放生川のほとりにお臨みになって生ける魚鳥を放ち「生きとし生けるもの」の平安と幸福を願う祭儀として始められました。
そしてこの石清水祭が勅祭として斎行されたのは、天暦2(西暦948)年の勅使御差遣に始まるとされ、爾来歴朝の天皇陛下には、八幡大神の御神慮にお応えになり、毎年勅使を差し遣わされて国家の安寧と国民の幸福を祈誓せられたのであります。
その後、円融天皇の天延2(西暦974)年には朝廷の諸節会に準じ楽人舞人が舞楽を奏することなどが定められ、さらに延久2(西暦1070)年には当日の太政官勤務の最上位たる上卿が勅使を兼ね、参議以下朝廷の諸官を率いて参向し、神輿の渡御を行わせ給うなど益々荘厳の度を加えることとなりました。

しかしながら、後花園天皇の御代(西暦1428~64)の末年頃よりは諸国戦乱のため式日延引すること度々に及び、ついに文明年間(西暦1469~87)以降は全く中絶するに至り、約200年を経て霊元天皇の延宝7(西暦1679)年に再興され旧儀に復しますが、明治初年の大改革により石清水放生会の名は明治元(西暦1868)年に『仲秋祭』、同3年に『男山祭』と改称され、同5年には神幸の儀が廃されて単に地方長官が奉幣使として参向されることに改められました。
しかるに、明治16年、明治天皇には旧儀復興を仰せ出され、翌17年より毎年新暦9月15日に勅使参向の上、祭儀が厳粛に執行されることとなり、大正7年には明治2年以来「男山八幡宮」と改称されていた社号が旧称「石清水八幡宮」に復したことに伴い『石清水祭』と改称され、さらに昭和20年からは官制廃止により旧儀中絶の已む無きに至り、勅使のみ参向され祭儀を執行せられましたが、同24年からは石清水八幡宮一社において三たび旧儀により護持斎行することとなり、現在に及んでいます。

三大勅祭

石清水八幡宮では年間100余りの祭典を斎行しておりますが、その中で最も重儀として知られているのが石清水祭です。
「勅祭」とは天皇陛下のお使いである勅使が直々に天皇陛下からのお供え物(幣帛)を供えに参向される祭典のことで、全国8万社ある神社の中でもこの「勅祭」が斎行される神社は16社しかありません。
とりわけ石清水祭は、葵祭の名で親しまれる賀茂祭(京都-賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)・春日祭(奈良-春日大社)と共に旧儀による三大勅祭の一つに数えられています。

動く古典

祭典は、15日午前2時、山上・御本殿にて御鳳輦(神輿)3基に3座の神霊を奉遷する儀式より始まり、同3時には御本殿を出発、約500人のお供とともに山麓へと下り、絹屋殿に着御されたのち勅使以下の奉迎を受け頓宮に入御、次いで献饌・供花・奉幣・牽馬など古儀による奉幣祭が厳修されたのち、放生川にて魚鳥を放つ放生行事が行われ、御鳳輦は同日夕刻、山上へと還幸になります。
真夜中、松明や提灯の灯りだけを頼りに八幡大神をお乗せした御鳳輦(ごほうれん)が約500名の神人と呼ばれるお供の列を従え、男山山上の御本殿から山麓の頓宮へとお下りになる「神幸行列」、早朝空が徐々に明けゆく静寂の中粛々と斎行される「奉幣の儀」。これらはまさに平安絵巻から飛び出してきたかのような高尚典雅の風を現代に伝え、文化と歴史を目の当たりにする〝動く古典〟として貴重な文化財といえるでしょう。

ご参列およびご奉賛のお願い

当宮ではこの9月15日勅祭石清水祭の斎行に際し、伝統文化の継承・護持のため、金5,000円のご奉賛をお願い申し上げ、ご参列のご案内をいたしております。国家の平安と国民の幸福を願い、平安王朝より連綿と受け継がれてきたこの祭典の意義を一人でも多くの方に知っていただき、そして我が国の宝ともいうべき石清水祭を次代へと伝えるため、皆様のご理解ご協力を心よりお待ち申し上げております。
なお、ご参列に関する詳細などは当宮社務所までお問い合わせください。
(お申込み期間:8月中旬から9月初旬)

神仏霊場会

神仏霊場会 京都・楽士の道 第81番札所
石清水八幡宮 第四期 神仏霊場会会長
石清水八幡宮宮司 田中恆清
京都は「山川も麗し」と」賛美された。「山河襟帯、自然に城を作す」形勝の地。東山をはじめ、三方を山々に囲まれ、東に鴨川、西には桂川が流れる。
この地には賀茂御祖神社と賀茂別雷神社などの古社が多く鎮座する。
また、桂川と宇治川、木津川の合流点には男山がある。
石清水八幡宮が鎮座し、伊勢参宮、熊野詣、高野詣などで京を出立するときには参詣した。
平安京の四方の山河の間に広がる郊野には、古くから神社や寺院が営まれ、さまざまな神事や仏事などが催されている。
ことに、東山は遠くに聳える比叡山から吉田山を得て、葬地鳥辺野に至るまで、多くの寺院が営まれる霊場である。千年を超える清水寺や八坂神社など、多くの古社名刹がある。
近畿2府4県を中心に古くから聖地・霊場とよばれてきた150の社寺が、『神仏習合』にもとづき発足した新しい組織『神仏霊場会』第四期 神仏霊場会会長・田中恆清
石清水八幡宮宮司にお話を伺った。
「1400年以上も続いてきた『神仏習合』という日本人の伝統的な信仰観を、今の時代だからこそもっと前面に出すことで、そういった思想の元に日本人皆が結束してきた時代があったことを知ってもらうことに意義があるのでは」と『神仏習合』とは、古来森や川など全てのものに神が宿ると考え、自然を崇拝し先祖を大切にする神道と、約6世紀ごろに伝来してきた仏教や儒教などが習合した日本独自の信仰のことである。
「争いごとを嫌い、柔軟に他を受け入れるという日本の長い歴史を何とか形にならないかと、様々な神職・僧侶の方たちや実務者の方たちと話し合い、その中で出てきたのが江戸時代に盛んに行われていた神仏霊場巡りです。
実際に行われていた霊場巡りの歴史を踏まえて、平成の今の時代に合った我々なりの神仏霊場巡りを組み立て『神仏霊場会』の名のもとに発足しました」。
神仏霊場巡りは、多いときで全国民の6人に1人はお参りしていたとも言われるほどの熱狂ぶりだったという、約120社寺を巡る江戸時代の神仏霊場巡りをモデルとして、平成20年3月、『神仏習合』の信仰を取り戻すべく124の社寺で発足し、その後、新たに26社寺が加わり60社90寺の150社寺で構成されている。
「どのようにまとめていくか…発足には紆余曲折がありました。江戸時代の120社寺ではなく、平成の『神仏霊場会』として、新しく創建された社寺も入っていただいてもいいのではという柔軟な話もあったり、また巡拝の順番はどうなのか…お寺は延暦寺からなのか神社は伊勢神宮からなのかとの論議がありました…そのため何度も会合が行われました」。
その中でもお伊勢さんは別格として共通の認識としてあり、先ずはお伊勢さんからという話にまとまる。
「伊勢にある皇學館大学で発足式典を行いその後、全員で伊勢神宮へ参拝しました。
伊勢神宮は『神仏霊場会』の正式会員ではなく特別会員としてお手伝いをお願いしています」。
この発足式は、伊勢神宮にとって明治政府による『神仏分離』以来、神職と高僧が一堂に会して公式に参拝されることは初めてのことだったという。
「皆さん方もご存じだと思いますが、歴史的に三社託宣(さんしゃたくせん)と言うものがあります。
『神仏習合』の代表的な、御社の託宣の共通にある『正直』を認識として持ってもらうことで、社寺の皆さんに了解をしていただき、お伊勢さんへ参拝することになったのです」。
三社託宣とは伊勢神宮(天照皇大神)、石清水八幡宮(八幡大菩薩)、春日大社(春日大明神)の教えである「正直」、「清浄」、「慈悲」という人が正しく生きるための三つの教えを説いたものである。
『神仏霊場会』では、150社寺を巡っていただく方を募集するため、社寺に行った証に朱印してもらう『神仏霊場会』専用の朱印帳を作り加盟社寺で販売している。
これが現在の朱印帳ブームの火付け役にもなったという。平成20年に発足以来、全社寺を巡拝した満願者は850人を超える。満願者は毎年行われる『神仏合同国家安泰世界平和祈願会(祭)』に招待される。
今後の展開について田中宮司は次のように語られた。
「一人でも多くの方に『神仏霊場会』を知っていただきたい。
また、『神仏霊場会』として1年に1回の総会だけではなく、150社寺として『神仏習合』という意識を持ってもらいたい。
そのため、私が会長となった今年の4月に交流会を開きました。約半分の社寺が参加されました。
今後何かをするときも『神仏習合』という意識を持ってもらいたい。神社はその旗振り役だと思っています。
私の発案ではありませんが、『神仏霊場会』10周年を記念して『神仏習合展』を開催する案がありました。
神社とお寺の宝物を集めて展示しようと準備委員会も立ち上げたのですが、なかなか険しい道で中止する形になっておりました。しかし私が『神仏霊場会』の会長のお引き受けをする時に、『神仏習合展』が開催できるように道筋を作っていくことを約束しました。平成32年(2020年)の東京オリンピックまでには開催できればと思っています。『神仏習合』は世界に誇れる信仰なのです」。

神仏霊場会 御朱印帳   (授与価:1,500円)


高良神社は摂社の中でも、八幡地区の氏神として篤い崇敬を受けています。
右面は摂社「武内社(たけうちしゃ)」(国宝)の御朱印。武内社は本殿瑞籬(みずがき)内に鎮座。
御祭神は武内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)。
延命長寿の神様。角印の左下に見える「熊笹」は武内宿禰の神紋「熊笹紋」をモチーフにしたものです。
「国宝」の印が押印されています。


左面は摂社「石清水社(いわしみずしゃ)」の御朱印。
小さく見える「瓢箪」型の中には「霊泉」と刻まれています。
「瓢箪」型は石清水八幡宮の社僧・松花堂昭乗が使用した印をもとにした意匠したものです。
男山中腹に位置する石清水社は霊泉「石清水」を核とした摂社で、当宮の名の由来となった本宮御鎮座以前の起源に遡り、傍らには石清水山寺が建立されていました。

社会とは、神社で会うこと。

神社の「社」は,神を祀るという意味を持つ「土」と神を祀る祭卓を表す「示」を組み合わせた漢字です。
「社」自体にも「祭りの日にその地域の人たちが集まって話し合う場所」という意味があるので、この一字だけで、神社のような場所を示していると云えるでしょう。

神様の大らかな心を見習って大らかに生きる。
日本人は古来、様々な考え方を柔軟に取り入れ、それぞれの良さを上手く共存させてきました。

車でお越しの場合
◇京都・名古屋方面より
名神高速・瀬田東JCTあるいは第2京阪道路から京滋バイパスへ
「久御山・淀IC」を降り側道(国道478号)を直進
石清水大橋を渡りすぐの信号を左折、府道13号(京都守口線)へ
御幸橋を渡り信号を直進
京阪電車の踏切を超えて右手の京阪電車「八幡市駅」ロータリーを通過
正面の当宮「一ノ鳥居」を過ぎてすぐ右側当宮駐車場へ
男山ケーブルまたは徒歩にて男山山上へ
◇神戸・大阪方面より
名神高速・大山崎ICを降り出口の信号を左折、国道171号へ
すぐ次の信号を右折、国道478号へ
2つ目の信号を右折、府道13号へ
以下、上記の名古屋・京都方面よりと同様
◇国道1号線より
国道1号「八幡一ノ坪」交差点を八幡市役所方面へ
八幡警察署・八幡市役所を過ぎ正面つきあたりの京阪電車「八幡市駅」ロータリー手前を左折、当宮「一ノ鳥居」を過ぎてすぐ右側駐車場へ
電車でお越しの場合
◇京都方面より
京都駅から近鉄電車「丹波橋駅」あるいはJR「東福寺駅」のりかえ
京阪電車「八幡市駅」~男山ケーブル「男山山上駅」 
下車徒歩5分
◇大阪方面より
地下鉄御堂筋線「淀屋橋駅」あるいはJR環状線「京橋駅」からそれぞれ連絡のりかえにて
京阪電車「八幡市駅」~男山ケーブル「男山山上駅」 下車徒歩5分




八幡大神の御神意     石清水八幡宮田中恆清宮司
平成22年は石清水八幡宮の御鎮座1150年にあたります。
今、私は神社本庁の副総長を仰せつかっています。
また、京都府の神社庁も仰せつかっています。
これも時代の要請であって、私のような能力に長けてない者がそういった立場になっている。
これも私は八幡様の御神意といいますか、そういうものではないのかと思います。
 ですから、私は幸せな出来事も不幸な出来事も、どんな事であってもやはり神様の御神意、言葉にあらざる御託宣として受け止めることを、ご先祖から受け継いできました。
今の私の立場から今後の田中家を考えると、私の子供は長女と長男のひとりずつですが、長男は後を継ぐという意思を固めてくれました。
今は資格がないと神職になれませんから、手続きに従って神道を基礎から勉強して石清水八幡宮の禰宜として奉仕をしています。
神社というものは歴史伝統がまず基本です。
その上に立って今の時代にどんな息吹を吹き込んでいくかが大切です。
神社の役割も、やはりその時代、時代によって異なっていくものです。
これからの世の中でも、神社というものは地域の中の一つの精神的な核であらねばならない。
神社とはもともとそういう存在でした。
それが時代の中で、行きつ戻りつしながら現在の姿になっているのです。

平成22年は石清水八幡宮の御鎮座1150年にあたります。
武内宿禰以来、58代にわたり続いてまいりました田中家の当代の田中恆清宮司の著書を紹介いたします。


本書では、身近にありながら意外と知られていない神道の考え方、日本人の心の拠り所を解き明かしています。
この本を読まれて、日本人の生き方の中に八百万の神々が密接に関わり合っていることを知っていただき、日本の歴史や文化、伝統に誇りを持っていただくための良い機会になれば、幸いです。