田原天皇(施基皇子)伝承-5

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第41代持統天皇は697年、軽皇子に皇位を譲ったが、実際は太上天皇として実際の政務は執り行っていました。
長く途絶えていた年号を復活し大宝元年(701)文武天皇5年の時です。同時に大宝律令が発せられました。
律令国家の実現を最初に目指した聖徳太子から約百年余、天智天皇からは半世紀、本格的に取り組み始めた天武天皇からでも30年のちに、持統太上天皇の精力的な熱意で国家の法典ともいうべき律令が制定され、」平安中期の崩壊期まで律令国家としての道を歩み始めるのです。

ともあれ、施基皇子は持統天皇の崩御の大喪の大役(造御竈長官)を施基皇子が行っているのです。
皇子にとっては、天智天皇の皇子として異母姉である持統天皇は天武朝以来の肉親の姉、育ての親ともいえる存在でしたから当然の役柄であったと言えるでしょう。
持統天皇の崩御の翌年ごろ、邸宅を高尾から清流を下った荒木の里に移されたと言い伝えられています。
現在はその邸宅跡は定かではありません。
1,300年も経た今、荒木の地形は大きく変わり、其の跡を知る手がかりも消え失せています。
大宝令の発せられた大宝元年には、それまでの無位無官の身に、皇族としては最下位ながら四品の位が与えられ、それから次々と登って施基皇子の死去の前年には二品になるのです。
また、皇子の封戸もこの頃、急激に増えているのです。
施基皇子の志とは違っても、朝廷では何らかの形で皇子の力をみと得る時期に差し掛かっていたと思われます。

今上天皇への系譜
大宝4年若しくは5年ごろ、施基皇子は大和国生駒郡の生駒川が大和川に流れ込む辺りの「ならしの岡(岩瀬の森)」という丘陵地に邸宅を構えられた。
それは、紀朝臣諸人の娘椽姫(とちひめ)を妃として住まわれるためでした。
紀氏は武内宿禰の裔で朝臣の姓を賜り、大和添上郡の西南部に居を構えた豪族であった。
椽姫はのちに施基皇子の第6子白壁王(のちの光仁天皇)を生んでいます。
そして、光仁天皇の皇子が桓武天皇であり、以来連綿として今の天皇家に繋がっているのです。
椽姫の父の諸人は『続日本書紀』に光仁天皇が即位されたときに、太政大臣の位を追位しています。
宇治田原の大宮神社の摂社には紀朝臣諸人を祀っていますが、これは、施基皇子や、光仁天皇(白壁皇子)との関係にあると考えられます。
この万葉集の歌は、施基皇子が「ならしの岡」におられた時に読まれた御歌です。
神名火の磐瀬の杜の霍公鳥毛無の岳に何時か来鳴かむ
(現代語訳)神のいます石瀬の森のほととぎすよ、毛無の岡にいつ来て鳴いてくれるのだろうか



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