田原天皇(施基皇子)伝承-2

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皇統38代天智天皇の御代、天皇は皇后のほかに8人の妃がおられ、4人の皇子と10人の皇女が生まれています。
 皇后には子がなく、嬪と称する中央有力豪族出身の妃には1人の皇子と7人の皇女が生まれたが、その大事な1人の皇子は8歳で亡くなられました。
 宮人と称する、中流以下の中央豪族や地方豪族出身の妃からは、3人の皇子と3人の皇女が生まれています。施基皇子(志貴皇子)の母もこの宮人であったので、身分の低い母からの出生の皇子と言えます。
 天智天皇が薨去されてから「壬申の乱」を経て、天武天皇が政権を担うようになりました。
 しかし、天武天皇は、兄の天智天皇以上に心の広い徳望のあった天皇で天智天皇の残された皇子、皇女に対しても、自分の多くの皇子、皇女と分け隔てなく養育をされたと伝わります。
 しかし、当時唯一の歴史書である「古事記」「日本書紀」は、それが天武天皇系によって作られた関係もあって、天智天皇系のことは、よほど重大なことでない限り載せていないので。施基皇子の生年についてはまったく不明です。天武天皇との皇子の関係から推察して、凡そ、天智天皇5年(666)の前後1~2年くらいの出生と考えられます。
 従って父であった天智天皇の薨去は皇子が6歳か7歳の時ということになります。

壬申の乱で兄の大友が死に、大津京の滅亡は、その翌年であるから、わずか6~7歳の施基皇子はこの激動をどのように感じておられたでしょうか。
 施基皇子は、第49代光仁天皇の父であり、第50代桓武天皇の祖父で、今上天皇の祖先になる方です。
かの有名な「万葉集」の残された万葉時代の最盛期の白鳳時代に生まれ、「万葉集」に6編の秀歌を残されています。
 文字通り万葉の時代に生きた施基皇子の人間像が浮かび上がっているのが、これらの秀歌です。
 そして、浮かび上がる人間像は、賢明で理知的、直感力に優れ、また洞察力に富んでおられたと感じられます。

 そして、天武天皇・持統天皇・文武天皇・元明天皇と続く天武天皇系の流れの中にあって、どちらかと言えば中央政治からは除外され、また自らもあまり好んで政治に立ち入ることがなかった一生です。
 しかし、卑屈な面や行動もなく、自然に親しみ、そこに大きな喜びを見出し、日々を悠々と率直に過ごされるために、都から離れた、宇治田原の高尾(こうお)の里に住まいを決められたのは当然のことだと考えることができます。



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